富山市安野屋に暮らすYASUNOYA AREAGUIDE

歴史レポート

城下町時代から続く邸宅地「安野屋」。自然と共に築かれたまちの歴史を紐解く。

神通川沿いにある緑豊かな邸宅地、安野屋(やすのや)地区。古くから存在する神通川の自然堤防上にある安野屋地区は、江戸時代にはすでに屋敷地として開発され、前田家に仕える武士たちが暮らしていました。

「安野屋」電停から見た現在の安野屋の街並み
「安野屋」電停から見た現在の安野屋の街並み

明治時代に入ると富山城が廃城となり、城の北側を流れていた旧神通川は流路を変更され、この広大な川の跡地に、新しい市街地が拡大していきました。その一方で、安野屋地区は開発の波から逃れ、連綿と続く閑静な住宅地であり続けています。現在では、安野屋と新市街の間には神通川の忘れ形見とも言える「松川」が流れており、松川沿いの桜とその流れに浮かぶ遊覧船は、富山市を代表する風景として知られています。

松川遊覧船と桜並木(©(公社)とやま観光推進機構)
松川遊覧船と桜並木(©(公社)とやま観光推進機構)

21世紀となった昨今、安野屋は利便性を持ちつつ、水・緑・歴史を身近に感じられる邸宅地として知られるようになりました。今回は、富山の街の歴史を紐解きながら、安野屋の変遷をさかのぼっていきたいと思います。

富山城下町の始まり

富山市の歴史を語るうえで、神通川のことを切り離すことはできません。神通川は現在は富山市街地の西側をまっすぐ南北に流れ下っている川で、富山市はこの神通川の三角州地帯に広がっています。しかしこの神通川は江戸時代まで大きく蛇行した川で、氾濫や洪水が起こるたびに本流の位置が変わっていき、こうして形成された自然堤防上の微高地に、安野屋地区は存在しています。

安野屋という地名は江戸時代前まで存在せず、隣村の磯部村が管理する土地だったと考えられています。安野屋の地名は江戸中期ごろ、「安野屋」という商人がこの地を所有していたことに由来していると言われています。

富山城下の歴史は、室町時代末期の1543(天保12)年、神保長職(じんぼうながもと)が富山城を築城した時に始まりました。その後1580(天正8)年に、織田信長の家臣だった佐々成政(さっさなりまさ)が入国すると、彼は大規模な土木工事を次々と行い、富山城下を水害に強い街へと変えました。

中でも1581(天正9)年に行った工事は有名で、富山城の特徴を決定づけるものでした。その年、神通川の支流である井田川が大洪水を起こし、井田川に押された神通川の本流は、富山城の北側を通るようになりました。佐々成政はこれを好機として流れを土木工事で固定し、川底を深く掘り下げ、富山城の背後を守る巨大な堀としました。この工事によって、富山城は難攻不落の城と名を馳せるようになったそうです。

「越中富山御城下絵図」(提供:「富山県立図書館」)
「越中富山御城下絵図」(提供:「富山県立図書館」)

難攻不落の城

「富山城」
「富山城」


1585(天正13)年、佐々成政は着任からわずか5年で失脚し、富山城下は新たに加賀前田家の支配下となりました。しかし、1609(慶長14)年に起きた大火災によって富山城が焼失すると、城は高岡へと移され、富山城は廃城となってしまいます。

それから30年が経った1639(寛永16)年、加賀藩の支藩として十万石という小さな規模ながら「富山藩」が成立し、富山城本丸は復興されました。初代藩主には前田利次が就き、二代目の前田正甫(まさとし)が進めた売薬奨励策によって、富山は薬売りの街として発展していきました。


城下町時代の安野屋

江戸時代の富山城は二重の堀と神通川に囲まれ、さらに城門の東側、南側、西側の三方に武家屋敷を配する、非常に守りの固い城として知られていました。北側には太く深く神通川が流れ、対岸からは城が浮いているように見えたため、富山城は「浮城」とも呼ばれました。

安野屋はこの富山城の守りの一角を固めた地で、隣の鉄砲町とともに、侍屋敷が配されていました。江戸時代末期の古地図を見ると、安野屋には名字を許された屋敷が多く並んでいることから、武家屋敷街であることがわかります。

安野屋と城の間には、神通川を渡る唯一の橋である「舟橋」が架かっていました。舟橋とは舟をつないで板を渡し、仮橋として人馬が通れるようにしたもので、神通川の舟橋は舟を64艘浮かべた日本一の規模だったそうです。有事の際には切り離すこともできるよう、防御面も考えて作られました。現在も松川に架かる橋のひとつに舟橋の名が残されています。

この舟橋は北陸街道の経路でもあり、多くの旅人や商人が行き交っていました。壮観な眺めから風光明媚の地として有名で、浮世絵にも描かれ、観光客も多く訪れたといいます。こうした人々を商売相手に、舟橋脇には鮎(あゆ)寿司を提供する店が生まれ、明治に入ってからは鮎が鱒(ます)に変わり、富山を代表する名品、鱒寿司が生まれました。

「越中之國 富山船橋之真景」松浦守美(1824〜1886)(所蔵:(株)源)
「越中之國 富山船橋之真景」松浦守美(1824〜1886)(所蔵:(株)源)

今では立派な橋に
LRTまで

安野屋から見た「富山大橋」
安野屋から見た「富山大橋」


悲しい伝説の地

江戸時代、安野屋は武家屋敷地の一角であるとともに、神通川の川原地への出口でもありました。古地図を見ても屋敷の周りは緑に囲まれており、おそらくここを通って、多くの子どもたちが川原に遊びに行ったと想像できます。

そんな地に悲しい伝説が伝わる木があります。「一本榎(えのき)」と呼ばれるこの木には、佐々成政が有名な「ザラ峠越え」で留守にした間、側室の早百合が不貞を働いたとの噂を聞き、ここで早百合を処刑したという伝説があります。榎の向かい側には、「早百合観音堂」が建てられています。

この伝説については異説もあり、佐々成政の後任藩主である前田氏が、民衆から人気を得ていた成政の評判を貶めるために、意図的に流布した作り話ではないかとも言われています。現在の榎は、戦後に植えられた2代目です。

手前の榎と合わせ、
2本ある

「磯部堤の一本榎」
「磯部堤の一本榎」

早百合姫がまつられている

「早百合観音堂」
「早百合観音堂」


かつて存在した「磯部庭園」と「磯部富士」

日本全体が好景気に湧いていた元禄時代、富山藩も好景気に湧き、安野屋の南(現在の「富山縣護國神社」付近)で豪華な庭園づくりが行われました。これは2代目藩主・前田正甫が作らせたもので、神通川の水を引き入れ、背後の川と山を借景とした日本庭園で、その出来は加賀の兼六園にも劣らないと言われていました。「磯部村御庭園之真景図」に、当時の様子を見ることができます。

この庭園は江戸限りで廃れてしまいましたが、シンボルである「磯部富士」はしばらく残されていました。明治末期、「富山縣護國神社」が建てられた時にも富士は残され、戦時中には軍事物資を隠す掩体壕(えんたいごう)として活用されましたが、戦後に取り壊され、現在はその跡地を示す石碑だけが残っています。

 

磯部村御庭園之真景図(複製)(所蔵:富山市郷土博物館)
磯部村御庭園之真景図(複製)(所蔵:富山市郷土博物館)

付近には往時を偲ばせる
岩積みや岩組みもある

磯部富士跡の石碑
磯部富士跡の石碑


市民の憩いの水辺へ

明治時代に入ると、富山城は廃城となり、富山城の本丸御殿には「富山県庁」が置かれ、富山の新しい街づくりが始まりました。中でも1897(明治30)年から1899(明治32)年にかけて行われた「神通川馳越(はせこし)線工事」は大規模な事業で、佐々成政が固定した蛇行部を、数百年ぶりに直線化するというもの。この事業によって富山市の中心に広大な土地が生まれ、本丸御殿跡にあった「富山県庁」も、城の南側にあった「富山市役所」もここに移されました。

一方で、安野屋は旧神通川の右岸に沿って残された「松川」で市中心部と結ばれ、都市部で働く人々の住宅街として注目を集めるようになりました。

松川沿いには昭和初期から桜が植樹され、人々の目を楽しませていたそうですが、1945(昭和20)年の富山大空襲ですべて焼け落ちてしまいました。しかし戦後、平和を祈念してさらに広い範囲にわたって桜が植えられ、いまや「松川の桜」と言えば、富山一の桜の名所として知られています。松川をゆったりと行き交う遊覧船も、富山市の風物詩のひとつです。

県庁付近から松川の流れに沿って歩いていくと、安野屋を経て、現在では治水工事のされた穏やかな流れとなった神通川の広い川原へと出ることができます。

美しい桜と遊覧船

松川遊覧船と桜並木(©(公社)とやま観光推進機構)
松川遊覧船と桜並木(©(公社)とやま観光推進機構)

現在も受け継がれる
憩いの場

「神通川の堤防緑地」
「神通川の堤防緑地」

 

富山県では神通川のさらなる洪水対策として、21世紀に入ってからも堤防のかさ上げと拡幅工事を行っています。国土交通省が2019(平成31)年から約42億円をかけて実施した「富山市街地重点防御築堤事業」は2023(令和5)年に完了し、神通川の堤防は従来よりも幅広く、大きな力に耐えられるものとなりました。ゆるやかになった堤防の斜面には芝が植えられ、新たな憩いの場として、今後も活用されていくことでしょう。

神通川をなだめ、利用し、共生してきた富山の街。その神通川をすぐ身近に感じられ、安心して暮らせ、都市の利便性も享受しやすい安野屋地区は、今後さらに邸宅地としての注目度を増していくのではないでしょうか。


発見ポイント!

「富山」駅周辺の現在の街並み
「富山」駅周辺の現在の街並み

  • (1)富山城の成り立ちと共に、「富山」駅周辺の街も変容してきた
  • (2)神通川の歴史からなる安野屋地区
  • (3)邸宅地としての歴史が長いからこその、安野屋地区の住みよさ

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